書店バックヤードツアー〜マンガナイト5周年記念イベント #1
マンガ読みに聞く、2015年ヒット作は?―「マンガナイト×TMR座談会」〜マンガナイト5周年記念イベント #2
立川まんがぱーく満喫ツアー〜マンガナイト5周年記念イベント #3
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マンガナイト5周年記念イベント



開館記念展「横浜市民ギャラリークロニクル1964-2014」にて、10/19(日)14:00~15:30開催のトークイベント「漫画家親子対談 ヒサクニヒコ×久正人」に、代表山内康裕が聞き手として出演します。

NTT東日本フレッツ光「ビズマガ」にてインタビュー記事「『マンガナイト』代表・山内康裕さんに聞いた!無料マンガサービスのマネタイズの仕組み」が掲載されました。
「プレジデントファミリー2014秋号」の特集『賢い子が育つ魔法の本棚/将来の夢が広がる「お仕事マンガ」』にて、代表山内康裕が選書をしました。

本作の下敷きとなっているのは昔話の『浦島太郎』。数万光年離れた惑星RYUGUから「繁殖」を目的に、かつての恋人である浦島太郎を追いかけて地球に現れた乙姫と、勝手に浦島と決めつけられてしまった美少年(?)、潮カズキの一風変わったSFラブコメ作品である。
乙姫は初対面のカズキを浦島と思い込み、自分たちの子孫を繁栄させるために様々な手段で繁殖行為を持ちかける。しかし、RYUGUの子孫を繁栄させること=地球の滅亡であると知ったカズキは乙姫の誘惑を拒み続ける。そもそも恋愛の結果として繁殖に至ることはあったとしても、好きでもない相手と恋愛の過程を全て抜きにして、繁殖から始めるなんてことはあり得ないというのがカズキの主張だ。なんと倫理的で真っ当な主人公だろうか。
乙姫は浦島とのDNAの一致からカズキを繁殖の相手として特定する。科学的に証明されているのでその手続きは明晰で嘘が無い。だからといってDNAの相性といった、科学的な根拠のみに基づきパートナーを決めるなど現実的ではないことを私たちは知っている。そんな証拠が手元になくとも、大概の人は特定の誰かを好きになり、恋愛に至るからだ。
しかし、ここで大きな疑問が残る。それは私たちがどうやって沢山の人間の中から、特定の相手を選び出し、添い遂げようとするのかということである。もっと簡単に言ってしまえば「なぜその人に恋するのか」ということだ。
例えば巷のアンケートなどでは恋愛の相手に望む条件として「やさしい人」とか「明るい人」といったものが挙げられる。「そりゃそうだよなぁ」と思いながらも「やさしいって何だ?」、「明るい人=何も考えていない人なのでは?」といった疑問も立ち上がる。「やさしい人」や「明るい人」になるためのテクニックがあるのならそれを習得した人が引く手数多になるのだろうか。出会いの手段の合コンも「知人が紹介してくれる人なら大丈夫かも」といった他力な安心感の上に成り立つし、「肉食系」「草食系」といった恋愛に対する態度もどこか言い訳じみて聞こえる。もう、いろいろ曖昧すぎて「?」の再生産なのである。
なぜ、人は恋をするのか。そしてなぜ一人の人を選び出すのか。社会学者の大澤真幸は著書『恋愛の不可能性について』の中でその問に迫っている。恋愛に至るという事は自分が相手に選ばれたという事実を踏まえている。そして、誰もが恋愛の相手に対して自分だけを愛してほしいと考える。だが、その一方で自分がなぜ選ばれたのかの理由を求めているし、自分への関心が他人へ移ることの恐怖を感じている。
「私のどこが好き?」なんて真顔で訊く人は多くないだろうが、友人や親類に「彼(女)のどこを好きになったの?」と訊かれることはあるかもしれない。しかし、この問に答える際には大きな落とし穴が待っている。「容姿」「性格」「スタイル」「年収」と何でも理由は付けられるし、条件を増やし、強化していくこともできる。だが、「容姿」といったところで、誰もが世界一美しい相手を選べるわけでもなく、「性格の良さ」などは何を基準に判定しているかわからない。中途半端なスペックの相手を曖昧な基準の下に選択した証拠を挙げ続け、不信を加速させるという負のスパイラルに陥らないためには、笑顔で逃げ切るのが良策かもしれない。
だが、この問に全く有効な答がないかというと、そうでもなさそうだ。私たちは、相手(およびその性質)のみを認識し、判断しているのではなく、相手とそれを取り巻く関係性を合わせて選択していると大澤は言うのだ。相手を選択した理由をすべて相手の中に、個体の中に求めていっても、それは相手に真実性をもって伝わらない。そのスペックを越える他人が現れるかもしれないからだ。一方、相手とその周囲の関係性は単純に「友達が何人いる」といった数字に還元できるものではなく、他人と比較できない。どんな経験を積んできたか、どんな人たちと付き合ってきたか、どんな服を身にまとっているか、どんな音楽を聴くのか等々、その人とその人を取り囲む世界の関係性は簡単には紐解けないものなのである。これをふまえれば、先の質問には「君の雰囲気が好き」と返すことでより正解に近づくだろうか。
物語が進むに連れて、乙姫が一方的にカズキを追いかける展開から、カズキが乙姫を救い出すヒーロー展開へと状況が変化する。この状況の変化にも彼女と接するうちに、ただ繁殖目的で迫っていると思っていた相手に対する恐怖とは異なる感覚の萌芽を見いだせる。乙姫と周囲とのやり取りや、過去の事情などを知ることによって彼女に対するイメージが変わり、恋が生まれたのである。これと同じように、私たちは相手とそれを取り巻く世界を深く知ることによって、想いを育んでいると考えられる。
あぁ、スッキリした。
正直、周囲の生命科学者に恋に堕ちる原理を訊くと「ドーパミンが…」、「アドレナリンが…」と順を追って丁寧に説明をしてくれるのだが、どこかスッキリしない。そんな科学的な説明よりも「相手の雰囲気が…」と平素な言葉で丸めこまれる方に安堵を覚えるのは、研究者としていけない態度なのだろうか。

マンガ論争11に「MANGA Moment Today 02 マンガ好きによるマンガファンのための空間を/マンガナイト代表 山内康裕」を寄稿しました。

JR中央ラインモールのエリアマガジン「ののわ」にて、先月に立川まんがぱーくで開催した「まんがかるた作り教室」の模様が取り上げられました。代表山内康裕のコメントも掲載されています。

大学生の子供をもつ親御さんはご存知かもしれないが、昨今の大学は教養を付け、研究論文を書くという本来の高等教育・研究を担う姿とは大きく異なったものになってきている。入学して「さあ、基礎教養を身につけよう」という状況にはならず、「さあ、就職戦線を勝ち抜く術を身につけよう」と各種キャリアアップゼミや就職対策サークルに入るのだ。ゼミナールと言えば教員を囲んでの古典の輪読、海外論文の抄読などがイメージされる。しかし、今は名刺の渡し方や面接の受け方などが実践形式で行われ、その指導のために就職カウンセラーやキャリアコンサルタントを雇っている学校も少なくない。大学は教養を身に付け、人生を豊かにする自由な学問の場から、より実践的な社会人力を付けて世の中に出て行くための就職予備校のようになっているのだ。
確かに大学全入時代と言われ、「大卒」という学歴だけでは就職戦線で勝ち残れない状況が背景にあることには共感する。しかし、そもそも「働く」と「職を得る」は違うのではないか。そんなことを考えさせられる作品に出会った。大久保圭の『アルテ』である。
舞台は16世紀初頭のフィレンツェ。他のマンガ作品で言えば惣領冬実『チェーザレ破壊の創造者』で知られるチェーザレ・ボルジアが活躍した時代である。主人公アルテは貴族の娘、絵を描くことが大好きで母親の反対を受けながらも父に許され、日々絵を描いて暮らしていた。物語はそんな主人公の父親が死去するところからスタートする。
当時、女性にとって多くの持参金を携え、より身分の高い男性のところに嫁入りする人生が最高の幸せと考えられていた。アルテの母親も当然その慣習に則り、アルテに持参金を与え、早く結婚するように勧める。しかし、アルテは絵を描いて生きていくことを決め、母親と対立して家を飛び出す。
いくつもの絵画工房の門を叩くアルテ。だが、女であるというだけで相手にしてはもらえない。絵が上手い下手という評価を受けることすら許されない彼女は、その状況にくじけながらも決してあきらめない。自分の絵は十分通用するはずという、ある種の思い込みが彼女を動かす。そしてついにある工房の入門試験を受けるところにまで至るのだ。
彼女の姿を見ていて気づくのは、一見、職を得ようとしているようだが、その実は働こうとしているということだ。「働く」とは自らの意思を持ち、社会の中で自分の役割を見つけ出して行動することである。本来であれば貴族の娘として働かなくとも生きていけるし、お金を稼ぐだけなら作中に出てくる高級娼婦のような道もあるのだ。だが、彼女はあくまで「絵を描く」という役割で社会にコミットしようとする。
ここまで読まれて「全員が全員、アルテの様になれるわけじゃないよ」という感想を持たれる方もいるだろう。私自身、その感想には同意するところもある。しかし、その意見には二つの意味が込められていると思うのだ。一つは、誰もがアルテのように高い技術を身に着けて、社会に挑戦できるわけではないという意見。もう一つは誰もがアルテのように大好きなことを見つけ出すことはできないという意見だ。
前者の意見は至極まっとうだと思う。実際企業に勤めると、大学で勉強、研究してきたことがそのまま役に立つなんてことは稀であり、自ら稼ぎを生み出す一人前の社員に育つには何年もかかることも珍しくない。かといって多様な業種や職種がある世の中で、大学が個々の学生に実践的な力を付けさせるための取り組みを行うなんてことは不可能に近い。
しかし、後者の意見にはちょっと疑問が残る。いくら職やお金が貰えるとしても、嫌いなことをずっと続けるのは辛い。「人が面倒な事、やりたくない事をするからこそ、お金がもらえるんだ」と言われても、やはり、自分がやりがいを感じる、そして自分に合った職を見つけたいと思うのが普通であろう。
私の周囲の研究者を見てみると、大きく二つのタイプに分けられる。まず、自分が研究で扱う「対象」が好きな人だ。文学でも生物でも宇宙工学でも構わないのだが、とにかく対象が大好きでそれについてより多くの新しいことを発見したいという意欲を持っている人である。もう一方は研究する際の「プロセス」が好きな人だ。物事を調べることが、実験することが、論理的に組み立てることが好きで対象というよりは作業のスマートさやテクニックにこだわりを持っている。もちろん、この二つどちらも大好きだという幸せな人もいる。反対にこの二つのどちらにも当てはまらないとすると、どんなに高学歴な人であっても研究で飯を食っていくことは苦痛でしかないだろう。
これは他の分野、職業にも共通して言えることではないか、と私は考えている。仕事で扱う「対象」が好きなのか、仕事の「プロセス」が好きなのか、どちらかが備わっていれば、意欲をもって続けられる。当然二つ揃えばさらにラッキーだ。そして、その可能性を探るための時間が大学時代なのである。
誤解して頂きたくないのは、私は決して「大学に入ったのだから学費以上分勉強せよ」と言っているのではない。勉強に向いている人、向いていない人、集中力が長く続く人、瞬発力がある人、単純作業を正確にこなせる人…様々な経験を介し、自分はどんな人間なのかを自覚する期間として大学時代をとらえて欲しいのだ。
齢こそ違えど、アルテにとっては父親が亡くなるまでが、自分が好きなことを見つけ、自分の特性を知るための期間であったし、その経験があるからこそ、周囲の反対を押し切っても自信を持って挑み続けることが出来たのだ。「自分探し」というと胡散臭いが、自分の性質を確認することから自信につなげていき、自分の足で立てるようになるという事だろうか。
あぁ、スッキリした。
まぁ、勉強以外の事もたくさんして欲しいとは言いながらも、私としては立場上、やっぱり大学に来たからには勉強が第一だぞとも思ったりするのだが。

2014年7月20日(日)、マンガを介してコミュニケーションを生み出すユニット「マンガナイト」は、イベント「マンガナイト読書会―あの人の持ってきたマンガは何だ?編」を開催しました。レインボーバードのイベントスペースに20人程度が集まり、マンガの推理・紹介ゲームに力が入りました。
今回の読書会には、推理・紹介ゲーム「ブックポーカー・マンガ版」を導入しました。ツブヤ大学の開発したゲーム「ブックポーカー」をマンガ用にアレンジ。グループに分かれ、持ってきたマンガを当て合うゲームです。
今回は、6~7人のグループを2つ用意。途中で参加者の方に入れ替わってもらい、1人2回ゲームに参加できるようにしました。
推理ゲームは、参加者のプレゼンテーションを聞いて持ってきた作品を当て合うもの。もちろん世の中に出回る作品は膨大なので、持ってきた人がヒントを話したら、あらかじめ回収しておいた作品をシャッフルしてテーブルに並べ、参加者が話したヒントなどを元に推理してもらいました。
1グループの人数が多かったため、全問正解は難しいかと思いきや、何人かは全作品を正しい持ち主と結びつけることができていました。
推理ゲームは、正解数に応じて個人に得点をつけました。
しかし推理ゲームだけではせっかく「この作品を他の人に勧めたい」と思っていた参加者の熱意が伝わりません。そこでブックポーカーには、「プレゼンテーションタイム」もあります。グループ内で自分の持ってきた作品のどこが面白いかを訴え、ほかの参加者には「読みたい」と思った作品に投票してもらい、得票数を競いました。
最後は、推理ゲームとプレゼンを通じた得票数を合計し、それぞれのグループで最も得点した人が全員の前で作品を紹介。(2グループで2ゲームやったので、4人)より多くの人に読みたいと思わせた人に景品がプレゼントされました。
最後にプレゼンをしたのは、以下の4作品の持ち主。

そのほか、各グループで紹介されたのは、以下の作品です。『飯田橋のふたばちゃん』(双葉社)にならい、出版社別にまとめてみました。(かっこ内の名前は作者、順不同、敬称略)
最近はマンガ飯を特集する本や雑誌がたくさん出ていますがが、実際に食べられる機会はまだ少ない。参加者の目が光りました。
スープ(写真手前)は「ビシソワーズとコンソメスープのゼリー」。少し昔の、30代に馴染み深い某作品のレシピを参考にしたもの。意外な作品から上品なメニューが飛び出し、参加者を驚かせました。
サラダは、アボカドとトマトをわさびしょうゆであえたもの。アボカドのまろやかさと、トマトの酸味やワサビの辛さがうまく組み合わさり、トマトが苦手な人も食べやすい1品でした。
メーンの「チキンファヒータ」は、少しピリ辛。単品ではもちろん、あらかじめ焼いてきていただいていたベーグルに挟んで食べると、気の利いたカフェのランチプレートのよう。ドライトマト入りのベーグルは、「こんなおいしいベーグルを食べては、市販のベーグルが食べられない」というぐらいおいしかったです。

デザートはおから入りのバナナケーキ。甘すぎずそれでいてしっとりしていて、食べ応えのあるケーキでした。
おいしいマンガ飯を食べながら、遅くまでマンガやアニメの話をする――マンガ・アニメ好きには、楽しい休日の過ごし方だったのではないでしょうか?
参加いただいた皆様、ありがとうございました。


DOTPLACEでの代表山内康裕の連載「マンガは拡張する[対話編]」佐渡島庸平×山内康裕 3/3「感動した記憶を宿せる『もの』の必要性。」がアップされました。

文=山内康裕(マンガナイト)
さっきまで笑顔だったのに、突然怒り出した。理由を聞くと、さらに怒った……男性諸君であれば、一度はこうした理解しがたい状況に陥ったことがあるだろう。「女心と秋の空」「女の心は猫の目」ーーこの不可解さは、男にとって最大の謎ともいえる。これを理解するための道しるべは、マンガの中にもある。マンガには、様々な女性の感情や思い、生き方を描いたすぐれた作品が多い。たとえば安野モヨコ作「バッファロー5人娘」(祥伝社)もそのひとつだ。この作品を読めば、なかなかわかりにくい女性の思考回路がわかるようになるかもしれない。
「バッファロー5人娘」の舞台は砂漠に点在する町。主役のキャンディとスージーは事件を起こして町にいられなくなってしまう。町を転々とするなかで仲間を集め、時にはぶつかり合いながらも保安官から逃亡を続ける彼女ら。生きるために娼婦として男に買われながらも、恋をあきらめない5人が、友情をはぐくみ、恋をしていく姿を描いている。
5人娘は、性格がそれぞれ全く異なる。ある者は前向きで楽天的。ある者は疑い深くクールだ。それぞれのキャラクターの性格はわかりやすく、行動も一貫している。
マンガは小さなコマで読者にどのキャラクターかを区別させなくてはならない。そのため当然の描き分けともみえるが、この性格のわかりやすさは結果として、現実の女性の複雑な感情を一つずつ抜き出し、キャラクターに振り分けて具現化しているといえるのではないだろうか。
男性にとって、様々な感情を複雑に併せ持つ女性を一度に理解しようとすると混乱するかもしれない。だが、本作では一人の女性がもつ複雑な感情が切り分けられ、別々のキャラクターに当てはめられている。そのため「こういう感情を持つからこのような行動をするのか」と腑に落ちる。
例えばスージー。彼女は序盤で「逃げ出すのは地獄」と思いながらも、キャンディに誘われて逃げ出す。一方、一緒に逃げ出したにも関わらず、裏切られたくないからまた一人になろうとする。そのくせ、ピンチになると「ひとりぼっちだから誰も助けてくれない」と思う。実に矛盾した発言・行動が多いが、その裏にある感情がわかると納得できるのだ。
性格が全く異なる5人が一緒に行動しているのも、男性からは理解できないかもしれない。だが5人それぞれの性格が「ひとりの女性のうちにある存在」と考えれば、自然に思えるのではないだろうか。
それだけではなく、各キャラクターが抱える想いもまた矛盾に満ちたものだ。「男性より強くなりたい」「自立して生きていきたい」と思う反面、「恋したい」「すがりたくなったら、受けとめて欲しい」という思いが、相反しながらも一人の女性のなかに共存しているのだ。どちらかといえば、物語では後者がネックとなる。
本作の中で5人娘は、みなそれぞれの恋をしている。ただ性格が異なるがゆえに、恋する相手や疲れたときの頼り方は、まったく異なる。
女性らの肉体の描かれ方も、「女性の気持ちを理解する」という観点からこの作品を読む時は助けとなる。5人娘は非常にセクシーに描かれているが、男性に性的アピールを感じさせるようないやらしさはあまり感じない。作者の安野が女性であるからなのはもちろん、女性向けに描かれているからだ。性的対象として偶像化された女性ではなく、人を愛し愛されたいと精一杯生きている等身大の人間として描かれている。男性からみてもひとりの人間として愛情を注ぎたい、生身の人間として理解したいと思わせる描き方だ。
もちろん青年誌に掲載される男性が主人公の作品にもセクシーな女性像は登場する。胸を大きく強調されて描かれる彼女たちの性格は、恰好よくみせようとしつつ実はあまえたがりというものが典型的だ。作中の人間関係は、特定の男性にだけ弱さを見せる美女と、その弱さも受け入れる頼れる男性という構図。女性は男性のスタイルに都合よく描かれ、男女の間で人間関係を築こうという葛藤はみられない。また男性側からも相手を理解して愛情を注ごうとは思えない。そのような努力をしなくても相手の女性が弱みを見せて頼ってくれるからだ。
男性諸君にとってはまさに「女性の恋心の教科書」。私自身も、女性の「好き」「楽しい」「嫌い」などの言葉を聞いたとき、そのままの意味なのか、それとも裏に本当の思いが隠れているのか、両方の可能性を考えなければならないと改めて実感した。女性の場合、ただの言葉尻だけでなく、表情やしぐさからも感情を推測しなければ真意に近づけないのだろう。
安野モヨコ作品に登場する女性キャラクターは、時に裏腹で理不尽で、そして愛おしくなるような、女性の魅力を描き出している。目から鱗の発見も多そうだ。「バッファロー5人娘」をきっかけに、ほかの安野先生の作品を読んでいけば、女心がわかるカッコいいオトコに近づくかもしれない。
7月19日(土)の立川まんがぱーく内イベント「あなたにオススメのマンガをご紹介します!」にて、マンガナイトも16:00〜18:00の時間帯にまんがコンシェルジュを担当します。

DOTPLACEでの代表山内康裕の連載「マンガは拡張する[対話編]」佐渡島庸平×山内康裕 2/3「これからは、読者個人の力でもヒット作が生み出せる。」がアップされました。

マンガナイトは2014年7月20日(日)、主催イベント「マンガナイト読書会―あの人の持ってきたマンガは何だ?編」を開催します。 イベントのメーン企画は、参加者が持ってきた作品をお互いに当てる推理ゲーム。作品への愛が問われます。
参加のお申し込みは下記のフォームからお願いします。
推理ゲームは、ツブヤ大学が開発した読書ゲーム「ブックポーカー」をマンガ用にアレンジしました。ゲームは
と進めます。新しい作品に出会いつつ、参加者の感想や人となりがわかってしまいます。
さらに今回の懇親会には「マンガ飯」も登場。「Café & Barジャノメ」のじゅんこさんがおいしいごはんを作ってくれます。あのマンガ作品でキャラクターが楽しむご飯を、みんなで食べてみませんか?
最近マンガを読んでいない方から、ヘビーリーダーの方まで、マンガを介して気軽にコミュニケーションが生まれ、新しいマンガに出会えるイベント。みなさまのご参加をお待ちしております。
※過去のイベントの様子はこちらから
【マンガナイト読書会―あの人の持ってきたマンガは何だ?編】

DOTPLACEでの代表山内康裕の連載「マンガは拡張する[対話編]」佐渡島庸平×山内康裕 1/3「みんなが、自分の『経験』を選んで買う世界。」がアップされました。

7月19日(土)13:00~15:00にワークショップ「まんがかるたの描き方教室」を立川まんがぱーくにて開催します。詳細とお申し込み(対象は小学生3~6年生)はこちらになります。

電子書籍『コルクを抜く』佐渡島庸平/大原ケイ/今村友紀/山内康裕/羽賀翔一がDOTPLACE LABELより発売されました。

価値観の多様化という言葉は既に私たちの手元にあり、その存在は当然のこととして受けとめられていると言って良いだろう。しかし、その多様性を私たちが許容しているだろうか、あるいは多様であることの恩恵を私たちは得られているだろうかというとかすかに疑問が残る。そんなことを考えさせられる作品が手元に届いた。唐沢千晶の『田舎の結婚』である。
『田舎の結婚』はそのタイトル通り、田舎に暮らす男女が恋愛を経て結婚に至るストーリーをまとめたオムニバス作品だ。畜産農家の息子、花火工場の跡取り娘と各話ごとに主人公たちがおかれている状況は異なるが、共通して印象に残るのは価値観の多様性を受け入れることで自分たちなりの幸せを獲得していることである。
一流大学を出れば、一流企業に勤めれば、都会で暮らしていれば…それらの条件は(全てがそうであるとは保証できないが)経済的な豊かさや社会的なステータスを高める為に必要だと考えられている。何も現代に限ったことではなく昔から「都に行けば」「良家との縁談が」といった話はあるわけだが、現代のように人生の選択肢が広がった中でも、こうした成功のためのステレオタイプが多くの人たちの間で共有されていると言うのはある意味異様でもある。
こうした、なんだかわからないけど私たちが心に抱いてしまう共通の理想像とそれに伴う圧力について、正面から向き合った思想家がハンナ・アーレントである。アーレントは、主体性を持たずに他人から与えられた理想を共有することによって生まれる連帯を「全体主義」と呼んだ。みんなが足並みをそろえて共通の理想に向かって進んでいけばきっと社会は良くなるはずという思い込みこそ危険だと彼女はいうのだ。
「平和」や「幸福」に向かってみんなが努力するのなら、なにも悪くないのでは?と考える方もおられるだろう。しかし、アーレントは「平和のため」とか「幸福のため」という正しさを疑えないスローガンの下に他者が虐げられたり排除されたりすることがあってはならないと言っているのだ。「あいつは非協力的だ」とか「変わったことをする奴だ」というように。多様な人がそれぞれの幸せに向かって進み、互いの幸せを容認できるように議論を重ねていく状態が人間本来の活動であるというのがアーレントの主張だ。
さて、話を『田舎の結婚』に戻そう。各話に登場する主人公達は最初何らかの劣等感を持っている。それは容姿、学歴、家族関係であり共通するのは田舎であるというものだ。例えば第一話の冒頭で語られる、「二両編成の電車が一時間に一本。コンビニまで車で5分。買い物は隣町のジャスコで。山の中には鹿どころか熊もいて、満月の晩には畑で猿が踊る。なにもない、それが俺の住んでいる村」という風に。
しかし、彼らはそんな状況におかれながらも、関係を深め、次第に自分だけではなく相手の幸せは何かを考え出す。自分が悩んでいるように相手も悩んでいるのでは、と思いやる気持ちが生まれ、その次に待っているのが、自分たちなりの幸せとは何かという問いだ。世間一般でいわれている幸せとは違ったとしても自分たちが、さらに自分たちを支えてくれる人たちが幸せであるなら、自分たちで決めた道を進もうという勇気が生まれる。相手が自分と違っているからこそ補いあえるということに気付くのである。
その証拠に、先の生活環境に対する心象表現は第一話の最後にも出てくるが、その時は全く違ったイメージで読者に届く。自分で決めたオリジナルの道であるからこそ他人との違いを誇れるし、他の幸せへの道も尊重できるようになる。正に多様性、そしてその許容とはそういうことではないか。
ただ、こうして偉そうに話している私自身についても、同様に気をつけなければいけないことがあるのにお気づきだろうか。一つはこの作品をもって「田舎は素晴らしい」という牧歌的な田舎信仰としてこの文章を書かないこと。そしてもう一つは「結婚は素晴らしい」という伝統的な家庭信仰を宣伝する内容に陥らないことだ。
当然、この作品を読み終えて「田舎って良いな」「結婚って良いな」と感じられる方もいらっしゃるかもしれない(正直、農学部出身で地方生活を送る身としてはとても嬉しい)。しかし、これらの設定に共感を覚えない方が居るとしたら、試しに谷川史子の『おひとり様物語』(講談社、Kiss連載)も読んでみてほしい。
こちらは反対に都会に住むおひとり様女子達が結婚や恋愛と向き合いつつ、自分にとっての幸せを見つけているオムニバス作品だ。どうしても『田舎の結婚』の「結婚=幸せ」という結末や田舎で暮らすことのドロドロを描かないというシチュエーションに違和感を覚える方がいらっしゃれば、また違った状況の中で、多様な生き方を選択していく若者たちの細やかな心象描写に触れることが出来るだろう。
『田舎の結婚』や『おひとり様物語』のような作品が描かれる背景として、「タヨウだ、タヨウだ」と言われて、確かに昔に比べて私たちの人生の選択肢は遥かに多様になっていたとしても、なにか周囲の目を気にしたり、旧来からの価値観に合わせてしまってその多様さの恩恵を体感できていない人が一定数いるからではないだろうか。多様な選択から自分で選び出したことに対する責任は当然自分が負わなければいけない。その一歩を踏み出す後押しをしてくれるのがこうした作品なのだ。
『田舎の結婚』が最も強く伝えようとしているのは、表面上の田舎での幸せな結婚ではなく、多様な幸せのあり方、人生の送り方があるということであり、その存在を認め合うことの重要性だ。それを伝えようという作者の誠実さが、この作品をただの少女マンガではない存在にしているといって良い。
納得。あぁ、スッキリした。
わざわざアーレントに登場してもらったのは大げさだっただろうか。でも、その価値がある作品だと私は自信を持って言おう。

中野経済新聞にて、7月11日開催のトークイベント「漫画家の登竜門を再考する-新人マンガ賞の意義と新たなプラットホームの可能性-」の取材記事で、出演する代表山内康裕がインタビューに答えています。

このマンガがすごい!WEB『7月の「このマンガがすごい!」ランキング[オトコ編]』に代表 山内康裕が選者協力しています。ランキングはこちらをご覧ください。

7月11日(金)19:00〜(開場18:30)開催のNPO法人中野コンテンツネットワーク協会主催「マンガアワードプロジェクト」第一弾企画トークイベント「漫画家の登竜門を再考する―新人マンガ賞の意義と新たなプラットフォームの可能性―」に代表山内康裕が出演します。

DOTPLACEでの代表山内康裕の連載「マンガは拡張する[対話編]」竹熊健太郎×山内康裕 3/3「『電脳マヴォ』収益化は、きっと業界の大事件になります。」がアップされました。

DOTPLACEでの代表山内康裕の連載「マンガは拡張する[対話編]」竹熊健太郎×山内康裕 2/3「編集者の顔が、もっと見えてきていいはずなんです。」がアップされました。

淡白に仕上げられているはずの作品が、なぜこんなに深く印象に残るのだろうか。研究者の悪い癖で、一旦考え出すと答が見つかるまで止まれない。そして、行き着いた答は「この作品には主人公が2人ずついるからではないか」というものだった。
まず、本作『かばんとりどり』について説明しておこう。構成はオムニバス作品なので1話完結。主人公も、一部姉妹や同僚でリレーする事もあるが各話ごとに交代する。女性である事が共通している以外、主人公の年齢、職業も小学生からOLまで様々である。そうした彼女達と彼女達が持つかばんを中心に展開される作品だ。
私が読後の不思議な感覚を解くための足がかりを得たのは、帯にある「女子のかばんには理由がつまっている。」という一文であった。そのまま読んでしまえば「なんのことだろう」と流してしまうが、読後に触れると、ハッとさせられる。勝手に言い換えるなら「女子のかばんは持ち主の分身である」ということなのだ。
あまり「女性」「男性」をわけて議論する事を好まない人もいるかもしれない。しかし、一般的に男性はかばんに機能を求める傾向が強いように思う。どれだけ荷物が入るか、ポケットが何箇所ついているのか、防水素材か云々。いわばツールを格納、運搬するためのメタツールとしてかばんを選んでいるのだ。少なくとも私はそうである。
一方、女性は機能よりもシチュエーションを考慮してかばんを選んでいるのではないか。なぜなら女性がいう「ツカエルかばん」というのは、多くの場面や服装に合わせる事が可能なかばんのことで、容量や耐久性は二の次にされていると感じるからである。
そして、かばんの中身=アイテムについても男女で違いがあるのではないか、と私はさらに仮説を掘り下げた。男性は前述のようにかばんにツールを詰め込む感覚で、いわば日曜大工のツールボックスの延長のようにアイテムを詰め込む。だから、例え中に収まったアイテムについて何かを語るとしても、それは個々のアイテムのスペックであって、決して叙情的なストーリーでは無いはずだ。
一方、女性のかばんの中身にはストーリーが欠かせない。本作中にも幾度と現れるが、その日(あるいは今後)起こるであろう事態を想定し、それらに対応できるようストーリー上にアイテムが選定される。そして想定されたストーリーに合わせてアイテム達が機能する事により、それら自体にストーリーが染み込む。ゆえに、かばんに入っているアイテム達が一体となってストーリーを構成すると同時に、個々のアイテム自体もストーリーを背負っており、かばんの中に時間と奥行きをもった意味の多次元空間が発現しているのである。こんなに熱を込めて書くと、女性のかばんに対して幻想を抱き過ぎだと思われるだろうか。
だが、あえて仮定してみたのだ。「女性のかばんは持ち主のストーリー無しには成立しない、持ち主の分身となる存在である」と。その検証のために、女性のかばんの中に入っているアイテムを全て取り出して並べたとしよう。そして、それらを同じ機能をもつ別のものと置き換えたらどうなるだろうか。そう、使い込んだ手帳を(情報は移行させて)別の新しい手帳に、週末アイロンをかけたハンカチを新しいハンカチにと言った具合に。果たして機能としては同じかばんが出来上がるはずだ。だが、それは何の価値も持たない存在になってしまうのではないか。
すなわち女性のかばん世界においてストーリー(あるいはコンテクストと言っても良い)の欠落は、その存在意義を決定的に失わせる可能性が高いのである。つまり、かばんとその中身は持ち主自身のアイデンティティや積み重ねてきた人生そのものであり、それをまとわない品々で取り繕われたところでそこに自分を見いだす事ができなくなる。正に、かばんは記号の集積によって成り立っているのではなく、持ち主を象徴する存在であり、かばんは持ち主の分身になっているのだ。(男性は機能さえまかなえれば、多少アイテムが入れ替わっても納得するかも知れない。僕だったら余程のこだわりの品以外は新しい事を喜んでしまうかもなあと思う。ここについては、より時間や手間をかけて調査する必要があるだろう。)
ここまで書くと、私がこの作品から感じ取った不思議な印象の原因を「この作品には主人公が2人ずついる」と結論づけた理由がおわかりいただけるのではないだろうか。各話では主人公が行動し、発言しているのと同時に、その傍らで分身たるかばんが寡黙にもう一人の主人公を演じている。それゆえに主人公の存在感は相乗的に大きくなるし、彼女達のプロファイルもかばん内のアイテムを介して再述、共有されるので、個々のキャラクターがかぶらず、読み飽きる事が無い。
マリオ・プラーツの言葉を変えていえば「あなたのかばんに何が入っているか言ってごらんなさい。あなたがどんな人間か話してあげますよ」というわけだ。
印象に残るマンガを作るための表現を思い浮かべると、密な描き込みや壮大なストーリー、強烈な台詞、奇想天外なキャラクターなどが思い浮かぶ。しかし『かばんとりどり』で用いられた手法はそれとは全く異なっている。それは作者の個性である、さらっと軽快な世界観を保ったままに主人公にまつわるストーリーを増加させ、濃厚な作品を味わったかのような感覚を生み出すものである。
納得。あぁ、スッキリした。
おそるべし、策略家、ウラモトユウコ(とその編集者)である。

このマンガがすごい!WEB『6月の「このマンガがすごい!」ランキング[オトコ編]』に代表 山内康裕が選者協力しています。ランキングはこちらをご覧ください。

DOTPLACEでの代表山内康裕の連載「マンガは拡張する[対話編]」竹熊健太郎×山内康裕 1/3「マンガ家は、“食えない商売”になりつつある。」がアップされました。

「池袋シネマチ祭」で、6月7日(土)14:00~17:00開催の解説付き作品上映&トークイベント「あなたの未来が見つかる!短編作品制作者が明かす創作秘話Powered by養老乃瀧」の司会を代表山内康裕が務めます。

「FLASH」2014年6月10日号記事「『進撃の巨人』
絵がヘタなのに3千600万部売れたワケ」にて、代表山内康裕の分析「新しい組織論が描かれている」が掲載されました。

「CAT’S FOREHEAD」のインタビュー記事『「マンガとコミュニケーション」の可能性・後編』にて代表山内康裕が取材を受けました。

東京のビジュアルカルチャーをバイリンガルで世界に紹介しているメディア「CAT’S FOREHEAD」のインタビュー記事『「マンガとコミュニケーション」の可能性・前編』にて代表山内康裕が取材を受けました。

「ジャケ買い」とは、内容ではなくパッケージ(マンガの場合は「表紙」)に惹かれて、物を買うことを言います。ジャケ=ジャケット(≒表紙)の意味です。数ある書籍の中でも、マンガほど自由度が高く、創造性を発揮できる「表紙」をもつものはないのではないでしょうか。
というわけで、今回は、「表紙」に着目して、特に魅力のあるマンガを選んでみました。(もちろん、内容もお墨付きです!)改めてみると本当に様々な表現がありますね。表紙をみるだけで内容を想像してワクワクしてしまうようなものもあれば、マンガ家・出版社等の想いを反映したものもあれば、はたまた、マーケティング戦略のひとつとして重要な役割を果たしていたりと、表紙から今の日本のマンガ文化そのものが透けて見えるようです。
みなさんもこれを参考に、本屋でマンガの「ジャケ買い」をしてみてはいかがでしょうか。
テレビドラマやアニメ化されるなど、今でこそ国民的な認知度を誇る本作も、第1巻発売時には知る人ぞ知る存在だった。ただ、他の作品とは一線を画す立ち位置であることは、書店に並べられた単行本の装丁からも感じられた。 タイトルよりもまず目に入ってくるのは、帯に書かれた、大豆インクを使ってプリントされている事と、古紙100%再生紙を使用している事を伝える文言。作品のあらすじやアオリではないのだ。だが、これは本作のフィールドである「農業」が綺麗な作物や加工品をつくる事を目的とするのではなく、安全で、安心で、そして結果的に美味しい食品を提供する事を第一に掲げていることとピッタリ重なる。 「装丁は書籍の顔だ」と言われる中で、過度に化粧させず、作品の性格を伝えようとする誠実なデザインがここにはあるのだ。(いけだこういち)
たった一文字のタイトルに、「うな丼」のアップを描いたカット。帯にある「鰻(まん)画」の文字が全てを物語るように、世にも珍しい「ウナギだけ」を扱った作品だ。1巻完結予定でスタートしたが、関東・関西の違いや、中華、フランス、イタリア料理での食べ方、すき焼きや燻製などの調理法と多岐に渡った結果、第4巻(99話)まで続いた。「諸国“鰻”遊」「やる気“鰻鰻”」など、雑誌掲載時の欄外に掲載していた文字も単行本に収録し、隅々までウナギ尽くしとなっている。今回、表紙を紹介した第2巻は内容も脂がのっていて、コラムには「土用の丑の日」考案で有名な平賀(源内)家の7代目当主、平賀一善氏や、苗字が「鰻」さんも登場。資源の枯渇が不安視されるウナギを、より深く味わうために読んでおきたい。(旨井旬一)
各巻の表紙の原則は、単色カラー+主要キャラクター主要キャラクターの「殺せんせー」の顔というシンプルなもの。第1巻は黄色からスタート。第5巻の白色や第9巻のチョコレート色など、あまり単行本の表紙には使われない色も使う。作者のコメントなどをみると、微妙な色の調整や殺せんせーの顔の配置など、非常に考えられたデザインのようだ。実際書店では、淡い色合いや人物画が多い中で、単色デザインは逆に目立つ。「あえて説明せず」という戦略の裏には、作品への自信、強気の姿勢が感じられる。すでにヒット作を持つマンガ家による発行部数の多い少年誌での連載作品であり、インパクトのあるタイトル。再度単行本の表紙で内容を説明する必要はないと考えたのではないだろうか。学校という閉じられた空間のなかで、殺せんせーの「暗殺」を通じた中学生の成長譚を描く少年誌らしいストーリー。落ちこぼれだった生徒たちが、少しずつ自信をつけていく展開は、読者に勇気を与える。そんな話の展開とあわせて、どこまで「単色表紙」を貫けるか、気になるところだ。(bookish)
近未来の日本を舞台に、生前の脳が見た映像を再現する「MRIスキャナー」を使った捜査で、難事件を解明していく。その特権を与えられた科警研の苦闘を描いている作品である。第1巻では、単色の背景に、男性とも女性とも取れる薪(まき)の中性的な顔を挟んで「秘密」という文字が配置されており、そのシンプルで大胆な構図は、人間味が感じられないほど丹精で美しい顔を一層引き立て、見る者の目を奪う。 冷たいような何かを諦観しているかのような視線の先に、これから始まる膨大な、重大な秘密を予感させてくれる。 また、表紙を開くと一枚のトレーシングペーパーが遊び紙として挟まれており、その次のページの中表紙が薄く透ける仕様になっている。その絵の美しさにも息を飲むので、是非手に取ってもらいたい。(ヤマダナナコ)
雨の中で佇んでいる制服姿の男子女子。白い背景と青くにじんだ彩色が瑞々しさを感じさせる装丁である。「あめのちはれ」は男子校と隣接する女子高を舞台にした、ファンタジックな学園ストーリーである。物語の根幹となる大きな設定は少女漫画らしくふんわりまとめられているが、時折出てくる生活風景や細部の描写にはリアリティが感じられる。コミックスは1巻ずつテーマカラーが異なっており、次巻はどの色になるか当ててみるのも楽しい。これから来る雨の季節に、部屋の中で学生生活を思い出しながら読んでみてほしい。(Kuu)

DOTPLACEでの代表山内康裕の連載「マンガは拡張する[対話編]」、しりあがり寿×山内康裕 3/3「薮に入っちゃって、後ろ見ても誰もいないっていう孤独。」がアップされました。2014年春の紫綬褒章を受章したしりあがり先生からコメントの追記もあります。

DOTPLACEでの代表山内康裕の連載「マンガは拡張する[対話編]」、しりあがり寿×山内康裕2/3「理屈じゃなくて『なぜか面白い』のがいい。」がアップされました。

DOTPLACEでの代表山内康裕の連載「マンガは拡張する[対話編]」、『しりあがり寿×山内康裕 1/3「というか、マンガの力、強すぎじゃない?」』がアップされました。

2014年5月10日に、マンガナイトは5周年を迎えました。それに伴い、マンガナイトの活動目的である、「マンガを介したコミュニケーションが生まれる状況をつくる」「実験的且つ多様な切り口でマンガの新しい可能性を探る」、この二つの軸が伝わるよう、ロゴを一新。
ユニット名の文字をいくつかのパーツに分け間口を設けることによって、色々なところからの参入が可能なことを表現。また、よく見るとその切り口が様々であったり、濁点がひっくり返っていたりすることによって、固定観念に囚われず、時には遊びながら挑戦して行くマンガナイトの姿勢を表しています。