世界に誇る日本のアートのひとつになったマンガ―なぜこの大衆文化はアートにまで昇華され、日本を代表する表現形式となったのか。その答えを教えてくれるのが東京都現代美術館で9月上旬まで開催された特別展「手塚治虫×石ノ森章太郎 マンガのちから」だ。
この展示では、手塚治虫・石ノ森章太郎両氏を、「時代の流れ」という縦の線と「マンガ家同士のつながり」という横の線でつなぎ、マンガという大衆文化がアートになり、その領域を広げていく過程がわかる。多くの人は彼らが作品を見ると「どこかで見たことがある」という感覚におそわれるが、それほど彼らの作り上げた表現方法は、国内外で人々の感覚や生き方に浸透しているのだ。
「マンガのちから」はは9月8日まで東京都現代美術館で開催。11月から来年春にかけて大阪歴史博物館や宮城県美術館など全国4カ所を巡回する。
“マンガの神様”手塚治虫氏と“マンガの王様”石ノ森章太郎氏。この2人はそれぞれ個人の記念館があるほど実績があり、仰ぐべき存在だ。なぜ今彼らを同時に取り上げて展示をする必要があるのだろうか? ――それはこの2人とその仲間たちで今のマンガ表現の基礎が作られたからだ。
主催のNHKプロモーションの鈴木俊二展博事業部担当部長は「2人は現在のマンガにつながるマンガ表現そのものを作ったクリエイター。その後に続いた人たちが発展させたことでマンガは社会に根付いた」と話す。普段はアート作品の展示が中心に東京都現代美術館という場所で、両氏の作品を現代アート、ポップアートの文脈でとらえ直すという狙いもある。
展示された原画や作品も、2人の関係性のわかる作品が中心だ。手塚プロダクションや石森プロが、2人のつながりなどがわかる作品を選りすぐった。高校生だった石ノ森氏が臨時アシスタントとして手伝ったという、手塚氏の『鉄腕アトム』の原画など興味深い展示が多い。これらはプロローグと4つのパートにまとめられ、順に見ていくと日本経済が成長する中で、マンガの表現方法や領域がどのように進化していったかがわかる。
第1部「ふたりの出会い マンガ誕生」は両氏の出会い編。一足早くマンガ家として活躍していた手塚氏と、宮城県で同人誌『墨汁一滴』を主催していた石ノ森氏。石ノ森氏は当時のマンガ雑誌『漫画少年』への投稿を通じて、その才能を手塚氏らに認められていたようだ。
高校生の石ノ森氏が臨時アシスタントとして手塚氏の原稿を手伝ったエピソードも
第2部「爆発するマンガ 時代への挑戦」は、手塚・石ノ森両氏が日本経済の発展とともに、月刊誌から週刊誌、さらにはテレビ雑誌や学年誌と活躍の場を広げていった時代をまとめた。1964年の東京オリンピックをきっかけに家庭用テレビが普及したことで、テレビアニメの時代が到来。『鉄腕アトム』『リボンの騎士』『サイボーグ009』などマンガのアニメ化による「メディアミックス」がスタート。鉄腕アトムの制作費を確保するために、おもちゃメーカーなどに版権を付与し始めたこともわかる。
『鉄腕アトム』はアニメ化、キャラクター商品化とメディアミックスの先駆けだった
マンガ家が子ども向けテレビ番組のオリジナル設定・ストーリーを本格的に作り始めたのも石ノ森氏の『仮面ライダー』の頃からだといわれている。石ノ森氏案の段階で、戦隊物の色分けがすでに行われていた。
第1部、第2部で蓄積された作品は、第3部の「“ちから”の本質対決」につながる。「いのち」「戦争と平和」「女性観」などテーマにあわせてそれぞれのマンガ家の作品から象徴的なシーンを選び、壁やカプセル内に展示。「2人の作品を知らない人でも楽しめるよう、それぞれのマンガ家の特徴的な表現やストーリーを抽出した」(NHKプロモーションの鈴木氏)という。それぞれのテーマの作品を見ながら、描き方の違いや共通点を考えてみるのも面白い。
「科学」というテーマで両氏の作品から象徴的なシーンを選んで展示
これらの展示を通じてわかるのは、現代のマンガ表現方法や産業の基礎がほぼ彼ら2人とその仲間たちによって作られたということだ。彼らはそれまでのマンガ表現を元に、映画や舞台などマンガ以外の分野から表現方法を取り入れていった。擬音の描き文字、モブシーン、陰影、クローズアップ、大胆な構図…現代のストーリーマンガで一般的に使われる表現方法の多くは手塚氏らが黎明期のマンガで挑戦したものだ。
それは「グッズ付特別版単行本」「キャラクター商品」などマンガ産業・メディアミックスの展開でも同様だ。ビデオソフトやゲームソフトなど新たなメディアの立ち上がりも後押しした。
石ノ森章太郎氏の「佐武と市捕物控」ではグッズセットの豪華版がすでに発売されていた
マンガ家同士も、お互いの作品や描き方を強く意識していた。年代順に原画を見ていくと、石ノ森氏の初期の作品は、手塚氏の絵の線の感じに似ているが、徐々に独自の線の書きぶりになっていくことがわかる。
「古事記 マンガ日本の古典」のころの絵柄。すでに石ノ森スタイルになっている
だマンガへの姿勢は2人の間で微妙な差があったようにも思える。常に先導者としての自覚のあった手塚氏と、その手塚氏の切り開いた道の中で自由に振る舞えた石ノ森氏。「マンガという文化を世の中に認めさせたかった手塚氏にとって自分に追従してくる後継者はライバル。一方で石ノ森氏はとことん楽しんで描いていたのでは」(NHKプロモーションの鈴木氏)。
もう一つわかるのは、当時のマンガ家がいかに当時の大きな娯楽であった映画やクラシック音楽に傾倒していたかということだ。『アパッチ砦』『我等の生涯の最良の年』――第1部では第2次世界大戦後に日本で公開されたアメリカ映画の白黒映像が流れる。会場内に再現された、「トキワ荘」内の石ノ森氏の部屋の床には無数のレコードが積み上がり、8ミリカメラも展示されている。石ノ森氏はテレビ『仮面ライダー』シリーズで監督を務めたこともある。
トキワ荘内の石ノ森氏の部屋の再現。レコードがつみあがっている
もちろん手塚氏の取り入れた映画的表現も解説されている。手塚氏は「戦争で子どもの娯楽が少なくなったなかで、子どもが手にできる紙媒体に映画の面白さをとじ込めようとしたのではないか」(NHKプロモーションの鈴木氏)。そしてその試みは、当時子どもだった人々に衝撃を与え、マンガ家の道に導いた。
トリビュート作品を取り込むことで、マンガの世界はさらに広がる
彼らの築き上げた「マンガの力」の行き着くところはどこか。それが第4部に集められたトリビュート作品だ。神様と王様が生涯描いたマンガ作品は短編・長編を含めると非常に多い。子供向けだった『鉄腕アトム』『ジャングル大帝レオ』『仮面ライダー』から青年向けの『BLACK JACK』『HOTEL』と、当時一緒に活躍していたマンガ家や若手のクリエイターは、様々な場面で手塚・石ノ森両氏の作品に触れ、影響を受けてきた。もちろんマンガ家以外のアーティストらへの影響も見逃せない。たとえば中村ケンゴ氏。彼は手塚氏が群衆シーンなどで多用してきたキャラクターの線を組み合わせることで新たな現代アートを作り上げる。福士朋子氏もコマ割りや擬音語などマンガの構造や文法を取り入れるアーティストの1人だ。
人気アイドル、桃色クローバーZが「サイボーグ009」のキャラクターに変身
個人的にはこのトリビュートのひとつに、今夏日本で公開されたハリウッド映画『パシフィック・リム』も加えたい。監督が直接、日本のマンガ・アニメを見たのかは確かではないが、「KAIJU」が人間社会を襲う様子、選ばれた人間がロボットともに戦うという設定、ロボットのエネルギー源が原子炉ということなど、手塚・石ノ森両氏の考え出した世界を彷彿とさせた。
こうした多様なアーティストによるトリビュート作品には石森プロ・手塚プロダクションともに乗り気だったという。そして、寄贈に近い形だったが多くのアーティストから賛同を得られた。「今、マンガ家という仕事が成立しているのは2人のおかげという思いもあったようだ」(NHKプロモーションの鈴木氏)トリビュート作品やオマージュ作品は、これまでいろいろな場面で目にすることができた。しかしオリジナル作品と同じ空間で展示されるようになったのは、マンガという文化がその領域を一段と広げたことの証左だろう。
展覧会の企画中に起きた2011年3月11日の東日本大震災も展示の方向を決めた。震災後、何ができるかを考えさせられていたところ、奮闘する宮城県石巻市にある「石ノ森萬画館」や宮城県の書店で回し読みされた週刊少年ジャンプ…とマンガの力が人々を明るくする様子を目の当たりにした。「『日本にはマンガがある』と強調するために、タイトルも『マンガのちから』にした」(NHKプロモーションの鈴木氏)
手塚・石ノ森両氏によってDNAにマンガを組み込まれた私たち。この所業はひとりの天才だけでもできなかったし、凡人だけでもできなかった。マンガ家やマンガフリークたちはいまだに手塚・石ノ森両氏の手のひらの上にいるのではないか――そんなことを思わせる展覧会だった。(bookish)
今後の開催予定
- 広島展
- 2013年11月15日~2014年1月5日
- 広島県立歴史博物館
- 大阪展
- 2014年1月5日~3月10日
- 大阪歴史博物館
- 山梨展
- 2014年3月21日~5月19日
- 山梨県立博物館
- 宮城展
- 2014年5月31日~7月27日
- 宮城県美術館