子どもの将也にとって耳の聞こえない硝子は異星人そのもので、彼女の私物を捨てても、大声で悪口を言っても、何ら罪悪感を感じることもない。クラスメイトも将也に同調し行動はエスカレートしていくが、最終的に将也のほうがいじめられる側になってしまい小学校生活は暗澹たるものになる。一方で硝子は転校してしまい、後悔や懺悔も伝える術もないまま将也の鬱々とした時代が始まってしまう。
時に硝子の母親にビンタをくらいながら、時に誰かの手によって停学に陥れられながらも心のうちにあるものを行動にうつし、目に見えるように「聲」が聞こえない相手に届けるためにひたすら悩みあがく、見えないものを形にしていくことがこの『聲の形』というタイトルにつながっていくのだと思う。
だが同じくして、将也は久々にできた高校の友人・永束にこう質問している。「“友達の定義”って何かわかる?」。これに対し永束は、それは定義づけないといけないものなのか? 友情は言葉や理屈を超えたところにあると思う、とハッキリと答えた。
物語はこれまで相手に何かを届けるためにどんなに鞭打たれても行動していく姿を描いていたが、ここで「言葉や理屈を超えたところ」という、将也のそれまでを全否定といってもいいシーンを描いている。硝子に近づいてもいいのか、その資格があるのか、再び将也の行動原理はぐらつく。ぐらつきながらも、おそるおそる硝子に近づいていく。
何が正解か明快なものが存在しない中で「やっぱりこっちが正解なのか?」「自分は間違っていたんじゃないのか?」と、行ったり来たり悩みながら変化していく将也の“曖昧な往来”。ヒーローのように正義の鉄槌を下すこともなく、ライバルを打ちのめすこともなく、ひたすら迷い続けるこの姿こそが現実世界に生きる人間にリアルさを感じさせ、目が話せなくなってしまうのだ。