3.11で思う、風景と私たちの生活との一体性

東日本を襲った大震災から2年。マスコミなどを通じて被災地の風景に触れるとその回復には時間がかかることを実感せざるをえない。
震災が一変させた風景はそれが自然だけではなく私たち、そして私たちの祖先の暮らしによってつくられてきたことを物語っている。
沈下や隆起により地形が変化し失われた風景の大半は、私たちの生活の堆積だったのだ。
風景と人の生活はつながっている——このシンプルだが誰もが忘れがちなことを震災が起こるより前に訴えようとしていた作品が、芦奈野ひとしの『ヨコハマ買い出し紀行』(講談社)だ。

『ヨコハマ買い出し紀行』は人口減少、地球温暖化、文明の後退が進む近未来の関東周辺が舞台。
主人公であるロボット、アルファと周囲の人々の交流を独特のテンポで描く。
この作品はロボットなど多くの人工物が登場しつつも景観というよりは圧倒的に風景的な雰囲気が強い。
それは背景と登場人物の境界が曖昧で、切り離して取り出すことが出来ないものとしているからだ。

登場人物の一人が言う。「私たち音やにおいでできてるんですよ…たとえばなしとかじゃなくて…」。
主人公アルファはウトウトしながらさらりとそれに応える。「知ってるよー」。

自然と身体の境界は曖昧である——『ヨコハマ買い出し紀行』の主人公たちは、これを当然のこととして受け入れることで、豊穣な意味の中を漂うことが出来るのだ。

作中で主人公たちはそれぞれの今を生きている。がそれは同時に世界に生かされているということのようにも感じられる。
世界は自分に大きな影響を与えるかもしれないが、自分も(微力ながら)世界に影響を与えている。
時間の長短、規模の大小こそあれども、それはどちらも受け継がれる風景の一部なのだ。

地理学者オギュスタン・ベルクは東日本大震災を「風土のスケールに近い出来事であった」と述べている。
日本で古くから「景観10年、風景100年、風土1000年」と言い伝えられていることを踏まえての発言だ。
震災のもたらした影響はおそらく『ヨコハマ買い出し紀行』で主人公らが経験した文明の後退より大きなスケールなのだろう。
だが現実の私たちは、「震災前は良かった」という感傷から脱却し、早急に景観をそして風景をつくりあげていかなければいけない。

例えば建築家の伊東豊雄。彼はただ闇雲に震災前の建物や港を再度造るのではなく、風景や風土の視線を取り込んだ「みんなの家」プロジェクトを乾久美子、平田晃久らとともに岩手県陸前高田市で実現させた。
「みんなの家」は、昨年のベネチアビエンナーレ建築展日本館で展示され、多くの来場者の共感を得た。風景を取り戻すという動きがけして小さなものではないことの証左だろう。

日常生活を送る中で、私たちが意識的に風景について考えることはほぼ無い。
震災で意識させられた、風景と私たちの生活との一体性も、忘れられてしまうかもしれない。
だが『ヨコハマ買い出し紀行』に触れることで、読者は自分も世界に組み込まれており、風景の一部であると再認識できるのだ。

『ヨコハマ買い出し紀行』は直接震災を扱った作品ではないが、震災後の行先を考えるうえで重要な要素が埋め込まれられていた。
良くも悪くも時代を先読みする——空想から生み出されるマンガにはときにそんなことがありうるのだ。

関連書籍
『風景という知』(オギュスタン・ベルク)世界思想社
『ここに、建築は、可能か』(伊東豊雄)TOTO出版

文=いけだこういち
1975年、東京生まれ。マンガナイト執筆班 兼 みちのく営業所長。好きなジャンルは少女マンガ。谷川史子、志村貴子作品をマイ国宝に指定している。日々、大蔵省(妻)の厳しい監査(在庫調整)を受けながらマンガを買い続ける研究者系ライター。どうぞごひいきに。