僕たちは多様性と向き合えているだろうか

「21世紀は多様性の時代だ」と言われ、「ダイバーシティ」という単語に接する機会も増えた。
でも、まだ私自身この「タヨウ」を捉えきれていないのだ。これはまずいなという私の焦りから今回は始めよう。

価値観の多様化という言葉は既に私たちの手元にあり、その存在は当然のこととして受けとめられていると言って良いだろう。しかし、その多様性を私たちが許容しているだろうか、あるいは多様であることの恩恵を私たちは得られているだろうかというとかすかに疑問が残る。そんなことを考えさせられる作品が手元に届いた。唐沢千晶の『田舎の結婚』である。

田舎の結婚』はそのタイトル通り、田舎に暮らす男女が恋愛を経て結婚に至るストーリーをまとめたオムニバス作品だ。畜産農家の息子、花火工場の跡取り娘と各話ごとに主人公たちがおかれている状況は異なるが、共通して印象に残るのは価値観の多様性を受け入れることで自分たちなりの幸せを獲得していることである。

一流大学を出れば、一流企業に勤めれば、都会で暮らしていれば…それらの条件は(全てがそうであるとは保証できないが)経済的な豊かさや社会的なステータスを高める為に必要だと考えられている。何も現代に限ったことではなく昔から「都に行けば」「良家との縁談が」といった話はあるわけだが、現代のように人生の選択肢が広がった中でも、こうした成功のためのステレオタイプが多くの人たちの間で共有されていると言うのはある意味異様でもある。

こうした、なんだかわからないけど私たちが心に抱いてしまう共通の理想像とそれに伴う圧力について、正面から向き合った思想家がハンナ・アーレントである。アーレントは、主体性を持たずに他人から与えられた理想を共有することによって生まれる連帯を「全体主義」と呼んだ。みんなが足並みをそろえて共通の理想に向かって進んでいけばきっと社会は良くなるはずという思い込みこそ危険だと彼女はいうのだ。

「平和」や「幸福」に向かってみんなが努力するのなら、なにも悪くないのでは?と考える方もおられるだろう。しかし、アーレントは「平和のため」とか「幸福のため」という正しさを疑えないスローガンの下に他者が虐げられたり排除されたりすることがあってはならないと言っているのだ。「あいつは非協力的だ」とか「変わったことをする奴だ」というように。多様な人がそれぞれの幸せに向かって進み、互いの幸せを容認できるように議論を重ねていく状態が人間本来の活動であるというのがアーレントの主張だ。

さて、話を『田舎の結婚』に戻そう。各話に登場する主人公達は最初何らかの劣等感を持っている。それは容姿、学歴、家族関係であり共通するのは田舎であるというものだ。例えば第一話の冒頭で語られる、「二両編成の電車が一時間に一本。コンビニまで車で5分。買い物は隣町のジャスコで。山の中には鹿どころか熊もいて、満月の晩には畑で猿が踊る。なにもない、それが俺の住んでいる村」という風に。

しかし、彼らはそんな状況におかれながらも、関係を深め、次第に自分だけではなく相手の幸せは何かを考え出す。自分が悩んでいるように相手も悩んでいるのでは、と思いやる気持ちが生まれ、その次に待っているのが、自分たちなりの幸せとは何かという問いだ。世間一般でいわれている幸せとは違ったとしても自分たちが、さらに自分たちを支えてくれる人たちが幸せであるなら、自分たちで決めた道を進もうという勇気が生まれる。相手が自分と違っているからこそ補いあえるということに気付くのである。

その証拠に、先の生活環境に対する心象表現は第一話の最後にも出てくるが、その時は全く違ったイメージで読者に届く。自分で決めたオリジナルの道であるからこそ他人との違いを誇れるし、他の幸せへの道も尊重できるようになる。正に多様性、そしてその許容とはそういうことではないか。

ただ、こうして偉そうに話している私自身についても、同様に気をつけなければいけないことがあるのにお気づきだろうか。一つはこの作品をもって「田舎は素晴らしい」という牧歌的な田舎信仰としてこの文章を書かないこと。そしてもう一つは「結婚は素晴らしい」という伝統的な家庭信仰を宣伝する内容に陥らないことだ。

当然、この作品を読み終えて「田舎って良いな」「結婚って良いな」と感じられる方もいらっしゃるかもしれない(正直、農学部出身で地方生活を送る身としてはとても嬉しい)。しかし、これらの設定に共感を覚えない方が居るとしたら、試しに谷川史子の『おひとり様物語』(講談社、Kiss連載)も読んでみてほしい。

こちらは反対に都会に住むおひとり様女子達が結婚や恋愛と向き合いつつ、自分にとっての幸せを見つけているオムニバス作品だ。どうしても『田舎の結婚』の「結婚=幸せ」という結末や田舎で暮らすことのドロドロを描かないというシチュエーションに違和感を覚える方がいらっしゃれば、また違った状況の中で、多様な生き方を選択していく若者たちの細やかな心象描写に触れることが出来るだろう。

田舎の結婚』や『おひとり様物語』のような作品が描かれる背景として、「タヨウだ、タヨウだ」と言われて、確かに昔に比べて私たちの人生の選択肢は遥かに多様になっていたとしても、なにか周囲の目を気にしたり、旧来からの価値観に合わせてしまってその多様さの恩恵を体感できていない人が一定数いるからではないだろうか。多様な選択から自分で選び出したことに対する責任は当然自分が負わなければいけない。その一歩を踏み出す後押しをしてくれるのがこうした作品なのだ。

田舎の結婚』が最も強く伝えようとしているのは、表面上の田舎での幸せな結婚ではなく、多様な幸せのあり方、人生の送り方があるということであり、その存在を認め合うことの重要性だ。それを伝えようという作者の誠実さが、この作品をただの少女マンガではない存在にしているといって良い。

納得。あぁ、スッキリした。

わざわざアーレントに登場してもらったのは大げさだっただろうか。でも、その価値がある作品だと私は自信を持って言おう。

文=いけだこういち
1975年、東京生まれ。マンガナイト執筆班 兼 みちのく営業所長。好きなジャンルは少女マンガ。谷川史子、志村貴子作品をマイ国宝に指定している。東京に妻子を残して単身みちのく生活。自由にマンガが買えると思いきや、品揃えが良い書店が近所に無いのが目下の悩み。研究論文も書かなきゃね。

「マンガアワードプロジェクト」第一弾企画トークイベント「漫画家の登竜門を再考する―新人マンガ賞の意義と新たなプラットフォームの可能性―」

7月11日(金)19:00〜(開場18:30)開催のNPO法人中野コンテンツネットワーク協会主催「マンガアワードプロジェクト」第一弾企画トークイベント「漫画家の登竜門を再考する―新人マンガ賞の意義と新たなプラットフォームの可能性―」に代表山内康裕が出演します。

非生物の「かばん」に語らせる新たな表現手法

ウラモトユウコの最新作が届いた。かばんとその持ち主を巡るオムニバス作品『かばんとりどり』だ。
彼女の特徴であるさらりとした人物描写やシンプルな背景の描き込みは変わらないが、読み終えてみると過去作とは異なる印象が残った。さらっと、軽快に受けとめられる書籍のイメージと反して、とても濃厚なドラマを見終えたときのような感覚になったのだ。

淡白に仕上げられているはずの作品が、なぜこんなに深く印象に残るのだろうか。研究者の悪い癖で、一旦考え出すと答が見つかるまで止まれない。そして、行き着いた答は「この作品には主人公が2人ずついるからではないか」というものだった。

まず、本作『かばんとりどり』について説明しておこう。構成はオムニバス作品なので1話完結。主人公も、一部姉妹や同僚でリレーする事もあるが各話ごとに交代する。女性である事が共通している以外、主人公の年齢、職業も小学生からOLまで様々である。そうした彼女達と彼女達が持つかばんを中心に展開される作品だ。

私が読後の不思議な感覚を解くための足がかりを得たのは、帯にある「女子のかばんには理由がつまっている。」という一文であった。そのまま読んでしまえば「なんのことだろう」と流してしまうが、読後に触れると、ハッとさせられる。勝手に言い換えるなら「女子のかばんは持ち主の分身である」ということなのだ。

あまり「女性」「男性」をわけて議論する事を好まない人もいるかもしれない。しかし、一般的に男性はかばんに機能を求める傾向が強いように思う。どれだけ荷物が入るか、ポケットが何箇所ついているのか、防水素材か云々。いわばツールを格納、運搬するためのメタツールとしてかばんを選んでいるのだ。少なくとも私はそうである。

一方、女性は機能よりもシチュエーションを考慮してかばんを選んでいるのではないか。なぜなら女性がいう「ツカエルかばん」というのは、多くの場面や服装に合わせる事が可能なかばんのことで、容量や耐久性は二の次にされていると感じるからである。

そして、かばんの中身=アイテムについても男女で違いがあるのではないか、と私はさらに仮説を掘り下げた。男性は前述のようにかばんにツールを詰め込む感覚で、いわば日曜大工のツールボックスの延長のようにアイテムを詰め込む。だから、例え中に収まったアイテムについて何かを語るとしても、それは個々のアイテムのスペックであって、決して叙情的なストーリーでは無いはずだ。

一方、女性のかばんの中身にはストーリーが欠かせない。本作中にも幾度と現れるが、その日(あるいは今後)起こるであろう事態を想定し、それらに対応できるようストーリー上にアイテムが選定される。そして想定されたストーリーに合わせてアイテム達が機能する事により、それら自体にストーリーが染み込む。ゆえに、かばんに入っているアイテム達が一体となってストーリーを構成すると同時に、個々のアイテム自体もストーリーを背負っており、かばんの中に時間と奥行きをもった意味の多次元空間が発現しているのである。こんなに熱を込めて書くと、女性のかばんに対して幻想を抱き過ぎだと思われるだろうか。

だが、あえて仮定してみたのだ。「女性のかばんは持ち主のストーリー無しには成立しない、持ち主の分身となる存在である」と。その検証のために、女性のかばんの中に入っているアイテムを全て取り出して並べたとしよう。そして、それらを同じ機能をもつ別のものと置き換えたらどうなるだろうか。そう、使い込んだ手帳を(情報は移行させて)別の新しい手帳に、週末アイロンをかけたハンカチを新しいハンカチにと言った具合に。果たして機能としては同じかばんが出来上がるはずだ。だが、それは何の価値も持たない存在になってしまうのではないか。

すなわち女性のかばん世界においてストーリー(あるいはコンテクストと言っても良い)の欠落は、その存在意義を決定的に失わせる可能性が高いのである。つまり、かばんとその中身は持ち主自身のアイデンティティや積み重ねてきた人生そのものであり、それをまとわない品々で取り繕われたところでそこに自分を見いだす事ができなくなる。正に、かばんは記号の集積によって成り立っているのではなく、持ち主を象徴する存在であり、かばんは持ち主の分身になっているのだ。(男性は機能さえまかなえれば、多少アイテムが入れ替わっても納得するかも知れない。僕だったら余程のこだわりの品以外は新しい事を喜んでしまうかもなあと思う。ここについては、より時間や手間をかけて調査する必要があるだろう。)

ここまで書くと、私がこの作品から感じ取った不思議な印象の原因を「この作品には主人公が2人ずついる」と結論づけた理由がおわかりいただけるのではないだろうか。各話では主人公が行動し、発言しているのと同時に、その傍らで分身たるかばんが寡黙にもう一人の主人公を演じている。それゆえに主人公の存在感は相乗的に大きくなるし、彼女達のプロファイルもかばん内のアイテムを介して再述、共有されるので、個々のキャラクターがかぶらず、読み飽きる事が無い。

マリオ・プラーツの言葉を変えていえば「あなたのかばんに何が入っているか言ってごらんなさい。あなたがどんな人間か話してあげますよ」というわけだ。

印象に残るマンガを作るための表現を思い浮かべると、密な描き込みや壮大なストーリー、強烈な台詞、奇想天外なキャラクターなどが思い浮かぶ。しかし『かばんとりどり』で用いられた手法はそれとは全く異なっている。それは作者の個性である、さらっと軽快な世界観を保ったままに主人公にまつわるストーリーを増加させ、濃厚な作品を味わったかのような感覚を生み出すものである。

納得。あぁ、スッキリした。

おそるべし、策略家、ウラモトユウコ(とその編集者)である。

文=いけだこういち
1975年、東京生まれ。マンガナイト執筆班 兼 みちのく営業所長。好きなジャンルは少女マンガ。谷川史子、志村貴子作品をマイ国宝に指定している。東京に妻子を残して単身みちのく生活。自由にマンガが買えると思いきや、品揃えが良い書店が近所に無いのが目下の悩み。研究論文も書かなきゃね。