さよならポニーテールは2011年10月にアルバム『魔法のメロディー』でメジャーデビューを果たした音楽ユニット。その活動はネット上に限られ、ライブはまったく行わない。メンバー同士も一部を除いて互いに面識がない。ファンは本当に公式アナウンスされているメンバー構成なのか、ユニットが目指すところはどこなのかなど、不確かな土壌の上で彼女たちの活動を見守っている。
さよポニをご存じない方の中には「さよポニって何?」「正体は誰なの?」と検索をかけた人もいるだろう。
私たちは常に「○○は××である」と言えるよう記号に意味を充填する。眼前にわからない対象が現れた途端、ポケットからケータイを取り出し、検索をかける。そして正体を突き止めて安心する。それだけわからない対象に意味づけできないことへの恐怖感が日常にあふれているのだ。
だがもともと日本文化とは、ロラン・バルトが『表徴の帝国』のなかで西洋を「意味の世界」、日本を「表徴(記号)の世界」と位置づけたように、「記号に確固たる中身がない。それでも豊かに存在する」ものだった。それは世界を切り分け百科事典化するキリスト教的世界観と、世界の複雑さを複雑なまま受け入れようとする仏教的世界観の違いと言い換えることもできる。自分たち西洋人が長い時間をかけて必死に議論し、弁別し、定義づけてきたものは何なのかと、バルトは日本文化の形態に驚いたのである。
この日本文化独特の空虚さは、まさにさよポニ世界の特徴を言い当てている。ファンは音楽を通じてさよポニを知る。しかしその実態は空虚だ。名前や役割が存在しても、それを理解するには圧倒的に情報が少なすぎるし、何よりその背後に固着した意味があるという保証はない。中身が入れ替わろうと誰も気づくことはできないのだ。
音楽と同時にその世界を知るために重要な存在となっているのがマンガ3作品だ。写真など実体を裏付ける情報が全く存在しないさよポニの世界では、ファンはマンガに描かれたキャラクター、背景によってはじめてその世界を視覚的に同定することができる。最新作『星屑とコスモス』(集英社)はファンタジーと現実が入り交じる世界でボーカル3人の学園生活や恋を描く。日常の傍らにいるような、遥か遠くにいるような不思議に変化する距離感が本作品の魅力となっている。
だが、3作品のマンガが必ずしも連続性をもち、音楽世界にぴったりと寄り添っているわけではない。彼女達の日常を描いた第1作『きみのことば』。だが第2作『小さな森の大きな木』は異世界を舞台としており圧倒的にファンタジーの要素が強く、両者間に大きな断絶が存在する。そして3作目の『星屑とコスモス』(別冊マーガレット増刊「bianca」他、掲載)ではまた日常生活に近い世界で話が進んでいく。なぜこのような断絶やより戻しが起こるのか、さよポニ側から一切の説明も無く音楽とマンガの微妙なリンクは続いている。
もたらされる曖昧な設定や断絶。しかしそれは混乱や失望を生むのではなく、まるでさよポニから独自の鑑賞世界のつくりかたを提案されているように感じられる。受け手は与えられる情報を集積するのではなく、自らの想像力をもってより主体的にさよポニの世界を補強し柔軟にその世界の変化に対応していかなければいけない。それはさよポニの世界に自己投影し親和性を高めることに他ならない。
想像力ーー私たちはこの単語を前にすると言い表せないむず痒さを感じる。幻想や妄想と同義として使う場合、どうしても現実と乖離しているというネガティブな面が主張し、公に語ることがはばかられる。にもかかわらず、それを完全に否定することができないのは、自分の中に自分だけの世界を作ることへの憧れを捨てきれないからなのだろうか。
さよポニは軽やかに、誰でも調べればわかる意味で構成された世界ではなく、記号をつなぎとめるためのエーテル(空想)で満たされた世界へと私たちを誘う。恥じらい無く想像力を開放するフィールドがそこにはある。
日本文化は本来、矛盾や空虚、曖昧といった世にあふれる説明がつかない事象を自分の想像力で埋めることで自分なりの世界を作り、堪能することで形成されてきた。
さよポニは現代において同様の鑑賞世界を私たちに与えてくれる装置なのである。