本来サードプレイスとはファーストプレイス=自宅、セカンドプレイス=職場、以外の居場所のことだ。ある人にとってはカフェやバーであったり、またある人にとっては図書館やダンス教室であったりとその空間は人により異なる。唯一存在する条件は、自分らしさを取り戻せる居心地の良さを備えていることだろう。
こうした現代のサードプレイスを意識させるのが久世番子著『パレス・メイヂ』(白泉社/「別冊花とゆめ」連載)だ。
時代は日本の大正にあたる頃。舞台は宮廷(パレス・メイヂ)。主人公御園は美しき少女帝彰子に仕える侍従職出仕である。彼の仕事は帝の生活の空間である「奥御座所」と執務の空間「表御座所」をつなぐ渡御廊下を行き来し、物や情報を受け渡すことだ。この廊下を行き来できるのは帝本人と成人していない数名の少年出仕たちのみ。女の空間「奥」と男の空間「表」をつなぐ廊下は帝にとっての中立地帯といえる。
彰子は先帝亡き後、幼き皇太子が元服するまでのつなぎ役として即位した。本作品の設定では帝位についた女性は結婚を許されず、終生宮殿の中で暮らすことを強いられる。しかし彰子は少女でありながらもそれを受け入れ、公務をこなし、周囲に希望を与え続ける象徴としての帝をつとめあげる。
そんな彰子にとって渡御廊下は帝としての役割から解放され、少女の自分に戻るごくわずかな時間を与えてくれるサードプレイスとなっている。そしてそこで本当の自分を引き出してくれる存在が御園なのだ。
また、御園にとっても即物的で拝金主義の兄や姉がいる自宅、それぞれのプライドと守備範囲を固めようと懸命になる「奥」や「表」から切り離なされた廊下は、彰子を想い、真摯に意見を言える大切なサードプレイスとなっている。
ただ、この作品は、サードプレイスでの2人のやりとりを描くだけでなく、さらに深く居場所としてのサードプレイスについて考えさせる内容に展開する。
彰子は帝として宮殿という籠に閉じ込められている一方で、自分が「寵愛」という形を用いて誰かを閉じ込めることができると知る。そうすれば御園が成人したとしても自らの傍に置くことが可能だ。だが、彰子はそれを選ばない。自分を解き放つために御園の存在を求めることは、即ち彼を束縛することに他ならない。彼女は自由がきかない立場だからこそ他人の自由を奪うことを嫌うのだ。
苦慮の上、御園に暇を出す彰子。しかし、彼は力強く告げる。
「私は籠の鳥にはなるつもりはありません! 陛下のお側で陛下が少しでも楽しくお過ごしになれるような籠になりとうございます!」
これはたとえ彰子が退位し、廊下を渡ることが無くなろうとも自分がそのかわりとなり、サードプレイスとして彼女が本当の自分に戻れる場所になり続けようという強い意志の現れだ。
この言葉は私たちを「サードプレイスはただ与えられるだけのものか」という問いと直面させる。私たちは自宅と職場の往復の中で、自分自身を解放する場所、時間を十分作れているだろうか。そして自分の言葉で考え、身の丈で語れているだろうか。さらにそうした自分自身の渇望、充足とともに、自身が誰かのサードプレイスになれているだろうか――このような省察がここから立ち上がる。そう、サードプレイスとは私たち自身が獲得し、再生産していくべき存在なのである。
『パレス・メイヂ』は単に宮殿における少女帝の恋愛やしきたりを描くだけではなく、その深部で「自分の居場所」を探し求めている現代人に対し、様々な示唆を与える重層的な作品になっている。果たして私たちは彰子や御園のように聡明な振る舞いができるだろうか。
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